2018年3月11日に神田神保町のブックカフェ二十世紀という古書店兼喫茶店のお店で催されたトークイベントに行きました。その時のことを思い出して書きたいと思います。
登壇者はお二方。お一人は石井紀男さん。元徳間書店「SFアドベンチャー」編集長。
もう一方はオーライ・タローさん。画家で生賴範義(生頼範義)画伯のご子息。
このイベントの一か月ほど前まで、具体的には2018年1月6日(土)~2018年2月4日(日)まで、東京上野の 『生頼範義展 上野の森美術館』が開催されていました。東京では大規模な展覧会を30日間開いて、入場者は31,906人。大雪に見舞われたりしたが、会期が終わるに従って観客が増えていき最後の方は図録が売り切れました。
オーライ・タローさん:この展覧会が今後の巡回やや海外につながればよいと思う。これからその実現に向けて動いていきたい。
石井紀男さん:タローさんが絵描きになろうというところで、自分史を伺いたい。
オーライ・タローさん: 父がいつも絵を描いていると意識したのは4歳か5歳の頃。 楽器の絵をいっぱい描いている時期に、 4,5歳の私がにそれにいたずら書きして怒られた。 その時に自分たちの絵とは違うと認識した。 昭和48年に東京に引っ越してきたが、中学の時に東京から引き上げて宮崎に行くという時、 横浜のおじさんのトラックの荷台に家族で乗り込んで引越しした。 夜逃げみたいだったので心細かった 宮崎の最初の頃は中心地に近いところに借家住まいだった。 もっと好きなことが出来る仕事場を探して住もうとしていたところ 父は大工の仕事を1年間見習いをやっていたので 自分とおじさん(お兄さん)がリフォームの手伝いをしてくれて、 ひと夏秋口にかけて仕事場に改造した。 あのアトリエは、新築したもの もとは農家だったので、 母屋と馬小屋として使っていたた大きな部屋があったので最初はそこをアトリエとして使っていた。 「破壊される人間」は馬小屋の方で制作していた。今は車庫として使っている。 最初のアトリエの時は、最初に人が住むところかと思った。 「北の国から」の純のような、「ここに住むんですか」と聞いた。 父はこのうちは良くなるよと言っていた。 石井さんが来た頃は樹木がうっそうとしていて、新しいアトリエだった。 敷地で畑として使っていた土地に建てた。 そこをつぶしてアトリエを立てた。イラストを描く部屋、油絵を描く部屋、若い頃の作品を保存する部屋 資料を置く部屋 装身具を置いたりしていた。 移ってから5年くらいしてから作ったアトリエ 高校2年生の頃に、父の仕事ぶりを見ていて 一生かけてできる仕事じゃないかと思った。 絵描きとして食っていくのとイラストレーターとして食っていくことの違いがその頃はわかっていなかった 決めてからは、父からのアドバイスは無かった。 父が石膏像を買ってくれた(ブルータス)。 書いてみろと言われて高2の時に書いてみた 当然全然書けなかった。 父は1,2時間で凄いのを書く。その石膏デッサンはまだ宮崎に残っている。 よく辞めずに自分も続けていると思う。 毎日描け、絶えず水を流していろと言われた。 1日書かないと駄目になると言われた。 口で教わったことは少なかった。
石井紀男さん:お父さんの絵と画家として描いている絵は違うと思うが、その辺は?
オーライ・タローさん:若い頃はレンブラントとか好きで、予備校に通っている時期に、 父親に刷り込まれていることの影響でポップアートや現代美術に目がいかなかった。 父親と違うと言われるが、絵描きは一台だから、心構えを継いでいればよいと思う。 父は「世田谷にいたころにやった仕事が今の俺を作ったと思う。学研 人体の解剖図 人体の内臓などを細密画を書いたのが一番勉強になった。あれがベースになった」と述懐していた。 肺から脳まで 昭和41,2年の仕事 学研の家庭の医学 その中のカラー口絵 信州大学に行って、電子顕微鏡をのぞかせてもらってスケッチしたり医学書を模写したりしていた。 実際に図鑑に乗せたイラストレーションの原画は手元にない。 それを補完するためのデッサンは残っていて2回目の宮崎の展覧会で展示した。 私の話は以上です。それでは石井さんお願いします。
石井紀男:SFアドベンチャーの編集部でSF雑誌の表紙というところで 雑誌の月刊化の時に編集長にぜひ生頼さんに頼みたいと 何とかこれで行こうよと言ったら 大丈夫かと言われた。 生賴さんに電話して伺いたいと言ったら、だめだ 電話で済むだろうと言われた 一回お会いした方が良いと思い、無理やり伺た ご自分で考えられていて 神話・伝説まで含めて女性を書いてみたい、 イブからジャクリーヌケネディまでやりたい そういう企画ならば引き受けるといわれて話が成立した。 その前の付き合いとしては、問題小説という雑誌の編集部にいたとき、 平井和正の「悪霊の女王」の原稿をいただいて 雑誌の中のイラストレーションを生賴さんに依頼した。 それが付き合いの始まりだった。 それから毎年、お願いに行くついでに年に1,2回春と秋に伺うようになった。 生賴さんが大変酒が好きだったので、一升瓶を抱えて伺うと アトリエのストーブの上に水で割った焼酎がいっぱいあって、 土産の一升瓶をやかんの焼酎をのんで深夜2時まで飲んでいて ばたっと倒れて奥さんにタクシーに押し込まれて帰ったことがあった。 その頃は40代。ヘロヘロに酔っぱらって、知り合いが寝ているのを電話で叩き起こしてお世話になった。 一度、伊勢海老が宮崎の港で上がって、生賴さんが料理した。 当時の編集長と一緒に行った。 伊勢海老の刺身に感激して、編集後記に書いた。 生賴さんがそういうことは書くものでないと怒られた。
オーライ・タローさん:私はそのころ東京の学校に出てきていましたのでいませんでした。
石井紀男さん:神話の絵は催促しなくても届くが、 日通航空の事務所にとりに行くが ガムテープでビシッと貼ってあり ひもで縛っているとが 全く指も爪も入らない ナイフで切っていかないと解けないような梱包だった。 手先の器用さはやはり天才だと思った。 自分で木箱を作って梱包をしていた。 開けるのが大変だった。 石井君の顔を書こうかと言われたが、 点描をやって見せてくれた、5-10分ですぐに形が出来てきた。 隅々で指先の細かさがすごいと思い知らされた。 とても早かった。 平井和正の仕事が増えていく。最初は500枚1000枚2000枚と増えていく 生賴さんも大変だったが、編集頂部も大変だった。 平井和正さんから 月に千二、三百枚をコピーして 片っ端から宮崎に送っていた。 無印も500枚くらい 両方合わせると机のところに積んであるのが2000枚くらいの小説のコピーが積んである。 2500枚の原稿のコピーが毎月並んでいた。 積んでいた原稿を毎月読んでいた。 100枚くらいで10枚の絵を描いていた。 ちゃんと小説のストーリーの辺りに小説の絵が描いている。 文章のストーリーに対応を合わせたタイミングにあうように挿絵を書いていた。 それを約10年間やっていた。 この原稿の山を見ろと行くたびに言われた。 平井和正は月に1000枚の原稿(単行本3冊)、 高橋留美子の対談などもあり、 多い時に月に1200枚くらい戴いた。
オーライ・タロー氏:単行本の表紙もずっと書いていたが、編集者としてはどう思われていたのか?
石井紀男さん:内容からかけ離れていた感じになっていた。 単行本の表紙は象徴的な絵になっていた。 ベガは幻魔宇宙でカラーで書いていただいた。 犬神明の新編の絵をハードカバーにしたものは象徴的なシンボリックな絵にした。 その頃の平井和正は、後半で真が段々終わりになって、ウルフガイにの頃に変な具合になってきた。 宗教懸かってきたものだから、教祖のお嬢さんの真創世記のゴーストライターをしていたが ウルフガイの新シリーズの時に、「平井はどうもおかしいぞ」と生賴さんは仰っていた。 変に宗教っぽくなって、困ったな、小説が書けなくなるのでは思っていた。 平井和正のところに森優がある人物を連れて現れた。 イニシャルで"S"と名乗るウルフガイの主人公の犬神明の人物が私のところに訪ねて来た。 平井和正が犬神明に会いたがっているから、そのリアル犬神明と平井和正の対談をしないかと言われて、 困り果ててはいたが、しょうがないからニューオータニ―の対談会を催して、 その"S"と平井和正の対談を行った。 SFアドベンチャー1986年8月号60ページに渡って、その特集が載っている。 "S"の実際の年齢は47,8歳だった。数回死んでいるけど、 心臓に2,3度弾(タマ)が入っているが品川から赤坂まで20キロで走って20分くらいで来た。 自分の来歴を平井和正の書いているように言う。 それ、平井の文章じゃないのというとそうじゃないと言った。 平井和正は真面目に、彼は国際的な謀略に立ち向かっているから、それ以降は関知しないと言っていた。 生賴範義画集『神話』は出版後、何度か手を入れている。 在庫のあるうちに絶版したと営業の方から言われた。 つぶすくらいなら生賴さんに送りたかったとは言ったが、間に合わなかった。 デザイナが大変だった。 デッサンを貸してくださいと言ったら、 クロッキーの薄い紙が1000枚はるかに超えていて デザイナーがそこから選び出すのが大変だったと答えた。 デッサンの物凄さには脱帽するしかなかった。 SFAは女性がメインにいて 奥さんをモデルにしてポーズをさせて衣装を着けて デッサンを書くということを生真面目なくらいにやっていた。 これの前に徳間で生頼範義イラストレーションという本で デッサンがどれくらいで始まって トレースしてキャンバスにひいて SFA石井宛と書くところまである。 顔のモンタージュとかがすごい。 装身具をまとめたところとかがすごい。 復刊ドットコムも忠実にやった。 デザイナーがここまで全部やって中身をやって、 凸版の職員さんに六色 、この時代は7色まで可能だと言われたが、 7色だと揺れる(赤なら赤でも別の方に行って戻れなくなるから」) 6色でやることになった。 見返しにがすごいことになった三食が奥行きのある黒になる。 400時詰めの表紙の言葉は石井さんから依頼した。 女性についての説明をしてくれと依頼した。 画伯はこの程度の物は要らないのではないかとは言っていたが やってもらっていた。 絵を描くより文章を書く方が苦労すると言っていた。 最後は17世紀のイラストで終わった。ジャクリーヌ・ケネディまで行けなかった。 だいぶお疲れかなと言ったら、くたびれたとおっしゃるので 辞めることにした。 1点書くのに約1週間かかる。 4週の中の1週間の工数なので大変なことではあったと思う。 プラス平井和正の仕事もあったし、 他の仕事や、徳間のコマーシャル系や他の作家の顔を書いてもらったりしていた。
最後に「デジタルエスタンプ」の方からの宣伝のLTをもって、トークショーは終り。
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