出演者
一万四千枚をこえる超大河SFを紡ぎ出し、 なおも旺盛な筆力で読者を圧倒し続ける平井和正氏が自らの使命感と話題のアニメについて熱意をこめて縦横に語る
●アニメ版『幻魔大戦』は私の『幻魔大戦』とは全然別のものであると理解していただきたい
読者M:
いま、いちばん関心があることからお聞きしたいと思います。
『幻魔大戦』のアニメーションについて、私たちの会では賛否両論で意見が分かれているのですが、
先生のお立場はどんなものなのですか?
そもそも角川さんから話が出たわけですか、アニメのいちばん最初の話というのは。
平井:
そうですね。例によって角川社長の霊感でもって、やりたいという申し出です。
あの人も霊能力者ですからね。
私自身、今まで四年間幻魔シリーズを書いてきまして、〝幻魔大戦〟というものが存在するんだということを、
アニメのかたちで多くの人たちに知らしめてもよい、
私が今まで書いてきた自分だけの幻魔シリーズを超えていく時期にさしかかったのではないかと思ったわけです。
部数的にいっても、トータルで信じられないような巨大なものになってきましたし・・・・・・。
私がそもそも幻魔シリーズを書いているのは、自分の中にあるメッセージを多くの読者に伝えたいということが動機になっていますからね。
ですから、今度、角川映画でアニメになれば、私のメッセージを多くの人たちに伝えるにはたいへん有利になると判断したわけです。
ただ、その場合でも自分の作品とアニメの『幻魔大戦』とは全然関係がないという基本的立場はとっていたのです。 もし私がこれは自分の『幻魔大戦』なんだということをいうためには、富野由悠季さんのように自分でシナリオを書き、 絵コンテを書き、あらゆる意味でコミットして、プロデューサー的なことをやらなければ、 自分の『幻魔大戦』だということはできないわけです。 ところか今の私の状態だとそれはまったく夢のまた夢で、物理的に不可能です。 ともかく私の人生というのは全部、小説を書くことだけに投入されてますのでね。 私にとってあくまで大事なのは、小説の〝幻魔大戦〟の世界を完結させることであって、ほかのことは一切やりたくない、 正直にいえば、後書きすら書きたくない。私の人生はいま全部幻魔シリーズに捧げられてしまっている。 それで、関与しようにも関与できない状態だったんです。
ですから、最小限の努力でこのアニメ版にコミットするしかなかったわけですが、それが私の読みの甘さで、 実際にできてきたシナリオとかそういうものに私がコミットすることは全くできない状態のまま、 今に至ってしまったわけです。それでは原作料とかそういうものをいただく資格はないということで、 私自身は原作料を含めてアニメ化に関する諸権利を一切放棄したんです。 そこまで徹底しないと、あれは自分の『幻魔大戦』ではないということが言えないわけです。
私自身、SFアドベンチャーの『真幻魔大戦』を始める時、共作者の石森章太郎さんと話し合いまして、 それぞれ自分の書きたい〝幻魔大戦〟を書こう、われわれだけでなく、本当にやりたい人がいたら〝幻魔大戦〟をやってもらおうじゃないかという約束になっているんです。 ですから、いまやっているアニメ版〝幻魔大戦〟は私に全くかかわりがなくて、あのスタッフの人たちが独自につくっている別の〝幻魔大戦〟だということで読者には納得していただくしかないわけですね。 私が責任を持つことができない以上、これはあくまでも別の〝幻魔大戦〟だというしかない。キャラクターなどのことで、読者からかなり激しい批判が来ているんですけど、別の〝幻魔大戦〟だということを少なくとも私の読者にはわかっていただきたい。
私がアニメのスタッフにお願いしたいのは、ぜひとも最良の作品をつくっていただきたいということです。 実際に優れた力を持つスタッフか集まっておりますから、いいものができるのではないかと期待しております。 大友克洋さんという非常に天才肌の、非常に珍しいタイプの作家を起用した段階で、この〝幻魔大戦〟は今までの日本のアニメにないような作品になる一つの可能性をはらんだと思います。 でも、それは私の『幻魔人戦』とは一切かかわりがないところで行われるものだということです。
読者M:
それでもやっぱり、読者の中にはそれに対して割り切れないと思う人もいるような気もしますけどね。
平井:
いると思いますね。うちのほうにも抗議状が来てますしね。あなたの良識を疑うなんていう激しいのがありましてね。
あなたは自分の『幻魔大戦』がかわいくないんですかなんていう厳しい意見もありました。
あなたは自分の『幻魔大戦』がかわいくないのか、自分の世界をあれほど破壊されて黙っているのか、煎じ詰めていえばそういうことでしょうね。
良識を疑うとまでいわれちゃったわけです。ただ、私には私の自信があるのです。
たとえどんなアニメが出てこようと、私の『幻魔大戦』を破壊することはできないという絶対の自信はあります。
角川書店で出している『幻魔大戦』は装丁とかイラストがいろいろ変わったんですけれども、そういう意味では私の自信はますます深まりました。
つまり、装丁やイラストでは自分の〝幻魔大戦〟の世界を壊されないものだという自信がつきました。
実際それくらい強じんなものでなければ、〝幻魔大戦〟の世界というのはまとまらないものだと思いますね。
●この長大な物語は私ひとりの力で生み出しているのではない。私は言霊つかいでしかないのです
平井:
前々から私は語り部といいますか、言霊つかい、幻魔シリーズは自分自身で書いているんではないという実感がありまして、それがますますつよまってくるんです。
言霊つかいという呼び方は中島梓さんがつけてくれたのですが、実にいい命名をしてくれたものだと感謝しています。
私自身も自分はほかの作家たちとちょっと違っているんじゃないかなと思うところがあったんです。
ほかの作家たちは、人工的にといいますか、技術的にといいますか、小説づくりをとても苦心して組み立てるんですね。
私は苦労しないで書いてしまうものですから、自分はほかの作家と違うんじゃないかなという気がしていたんですが、言霊つかいといわれてハッと気がついたわけです。
私はただの通信者で道具に使われているんだ、と。
早い話がラジオみたいなものですよね。伝達されてくるものをそのまま伝える。あんまり加工しないほうがいいんです。 いま幻魔シリーズは一万四千枚ぐらいになっていると思うんです。『大菩薩峠』が世界記録で二万枚なんだそうですね。 二十七年かかったが未定です。そうすると、もう七割近くいっているんです。四年間でなんですよね。 『大菩薩峠』を、最後まで読み通した人というのに私は今まで一度も会ったことがなくて、今年、小野耕世さんに聞いたら、あの人が全部読んだというんです。 それが唯一なんですね。それくらいまれなんです、あれを全部読み通したという人は。
だから、幻魔シリーズの、あんなにムチャクチャに長い小説を読者が読んでくれているというのは、これこそ本当の奇跡なんだと思います。 これは絶対私一人の力ではありえないんで、言霊つかいだからそれが務まっているということだと思います。
ただ、言霊つかいといっても私の中には幻魔シリーズを書く上できっちりした体系があるんです、世界像というものに対して。 それを全部、あからさまに出してしまうと、宗教そのものとして誤解されてしまう。 私が幻魔シリーズを書くうえでいちばん気をつけているのは、宗教のにおいを出さないということです。 ちょっと宗教くさいというだけでものすごく反発が起きてくるんですね。 宗教じゃないんだけれども、そういう感じがちょっとでもすると、強く反発されますしね。 そういう点で、作家として気をつけているのは、どういうかたちで作品に普遍性を与えたらいいだろうかということですね。 たとえば、霊なんていう言葉を見ただけで拒絶反応を起こす人って、いっぱいいるんです。 神という言葉を聞いただけでもうイヤだという人がたくさんいます。大好きな人もいるんですが。 そういうものすごく極端に分かれた人たちに、どうやって小説を読んでもらうかっていうのは大変なことだと思うんです。
巨人は大きらいだが広島は好きだ。その反対もあるでしょう。でも、巨人と広島が試合をすれば両方とも見るんです。 ですから、そういうことを小説において目指すしかないですね。共通項はどこかにある。巨人軍がきらいだという人たちは、言い換えると、巨人が負けるのが好きだということなんですよね。
ただ宗教とか神の問題になると実にむずかしい。 たとえば、私自身が経験している非常に霊的な体験をそのまま話してしまうと、あれは神がかりだとなってしまう。 ですから、それはなるたけ出したくない。皆さんが想像する以上にぼくは霊的な体験をたくさん積んでいるんですが、それはあんまり匂わせたくないんです。
ぼくの日常感覚からすると、霊能なんてあたり前なんですよね。たくさんの強い力を持った霊能者を見ているんで、あんなものはないと疑うこと自体がとてもおかしいという感覚になってしまっているわけです。 でも、それをあからさまに出しますと神がかりになりますから。そこがいちばん大きなギャップですね。 そういうことはできるだけ出さずに、なおかつわかってもらうという作業は、とても微妙ですね。 幻魔シリーズを書くというのは、私にとってそういう作業がすべてです。 なるたけ反発を生じない、抵抗感を最小にするという作業ですね。
●人間は物質的な欲望から離れて生きることがいちばん大事なことで、それを強調したいですね
読者Y:
角川版の『幻魔大戦』を読んで思うんですけど、登場人物が転生輪廻していますね。
田崎宏などは自分の前世の記憶を取り戻して、自分の欠点とか悪かった点を直そうとしていますけど、
現在生きている私たちが転生輪廻の記憶を持っていない場合、何度転生輪廻を繰り返しても、自分の悪いところが改まらないわけです。
そういう点はどうなんでしょう。
平井:
私も転生輪廻の記憶は持っていないのですけれどね。ただいえることは、人間というものは物質的な欲望に動かされやすい存在ですよね。
もし転生輪廻の記憶があって、過去にどういう生き方をした、どういうことで失敗したということがちゃんとわかっていれば、今生において生きるときにも参考になりますよね。
そうでしょ、どういうことで失敗したのかとか、そういうことがわかっていれば、とか。
ところが、そういうことが生かせなかったら、いくら記憶を持っていたって意味ないですよね。
また同じことやってらあということになります。ですから、霊的なことはとても限界かあるんです。
過去に生きた記憶を持っているといったって、ちっとも偉くないんです。何でもないんですね。
むしろ、ぼくは『幻魔人戦』で強調して書いてますけど、人間というのは物質的な存在じゃないんだ、 物質にとらわれて生きる必要はないんだということが本当にわかれば、もっと解放された、自由な存在として生きられる。 これがいちばん大事なことですよね。ぼくはそう思うんです。だから、超能力とか霊能にとらわれてかえって自分を狭くしてしまう可能性も強いんです。それは実感としてわかるんです、いっぱい霊能者を見てますので。
物質的な欲望から離れて生きるということが、本当はいちばん大事なことなんです。 霊能とかそういうことでかえって縛られてしまうんだったら、そんなものはないほうがいいって東丈がいうでしょう。 あれはぼくの実感ですね。
実際にそうです。つまり、世の中にはきちっと立派に人間らしく生きている人はいっぱいいるんですよね、 霊能とかそんなことと全然かかわりなく。 霊能者だといわれている人が、しかも、過去世の記憶を持っているなんていいながら、きちっと生きられない人もいるんですから、霊能というのはあんまりかかわりがないものだなあと思います。 東丈が繰り返して強調するように、人間らしく生きることがいちばん大事だということじゃないでしょうか。
宗教とかそういうことは人間らしく生きることとあんまりかかわりないんですよね。 たとえば、ソ連とか中国は唯物論の国ですよね。でも、ちゃんと立派に生きている人だっていっぱいいると思うし、宗教と切り放したって人間というのはきちっと生きられるものですよね。だから、大事なのはそういうことじゃないということです。 やっぱり、人間が人間らしく生きることがいちばん大事だというのが結論ですね。
ぼくも。子供二人持っている身なのでいつも感じることなんですが、親というのは本当に責任が重いんですよね。 親がものすごくチャランポランに生きていて、息子や娘に「おまえ、なんだ!」っていえないですよ。 親がでたらめな生活をしていて、息子がおかしなことを始めたといって説教するというのは、ちょっとできないですよね。 まあ、やっている人はいるかもしれませんが。やっぱり人間として大事なことはあるので、子供を持って初めてそれがわかりましたね。 自分がだらしない生活をしてたら、子供に文句をいえなくなっちゃいますね。
『幻魔大戦』は決して道徳教育の教科書でも何でもない。私自身もそういう気持は全然ありません。 ただ、人間というのは決して物質に縛られた存在ではない物質的な肉体が消滅すれば消えてしまうそんな頼りないものではない、 もっと本質的なものがあるんだ、そういうものに目を開け、それがいちばん根本的なメッセージだと思いますね。 これだけ長大な幻魔シリーズを書くというのは、ただそれだけのために書いているのではないか。
実際に霊能とか超能力のあり方を考えてみると、難しいものだと思いますね。 人間というのは、霊能とかそういうものがあるためにかえって縛られてしまうんですね。 そこがいちばん難しいところです。ぼくなんか、そういう超能力がないというのは、とてもありがたいですね。なくてよかったと思います。
全然ないということじゃないんですね。人間は非常に超次元的なエネルギー体ですから、実際に霊能とか超能力といわれているものはあたり前のあり方なんです。 これは絶対に確実なものとして自信を持っていえます。私みたいに霊能のない人間でも、一時期にはものすごい、いろんな霊能が出てきちゃいましたからね。 実際に古い悪魔書などを読んでいると、そこに出てくる悪魔ね、そういうものがパッと目の前に出てくるんですね。 その時の驚きってないですよ。やっぱり、そういう維験をすると目に見える世界というのは本当に狭いものだと思いますね。 しかしあれがのべつまくなしだったら、幻魔シリーズなんて書けやしませんよね。
『真幻魔大戦』でもとても印象的なことがあったんです。 リア姫が宇宙へ出て経験するくだりがあるでしょう。その時に宇宙意識のフロイに導かれて幻魔の咆哮を聞くんです。 虚無の咆哮と書いたと思いますが。それを書いたとたん、頭上で雷鳴がとどろきわたったんですよね。 夜の二時ごろでしたが、突如としてですよ。今までは何ともなかったのに。 書いたとたん、頭上でものすごい雷鳴がとどろきわたった。 あの時は本当にたまげました。そういうことがあるんですね。
●天使より悪魔のほうがおもしろいという読者が意外にいるのですが、それもまたうなずけます
読者Y:
私は角川版の『幻魔大戦』から読み始めたんです。
初めはいつものSFを読むみたいに読んでいて、東丈がみんなに自覚しなさいというのに、みんながなかなか自覚しない。
それで、早く早くと思っていたんです。
どうして東丈のいうことをみんな理解しようとしないんだろうと思っていたんですけど、ある時、ハッと気がついて、実はその小説の中だけじゃなくて、私自身に自覚しなさいと東丈はいっているんじゃないかと思った。
それからちょっと読み方が変わったんですけど、そうやって読んでいくと自分で自覚するというのはすごく大変なことだなあと思うんです。
平井:
それはそうですね。自覚するといったって段階がある。レベルがあるということで、逆に狂信、妄信にパッと行っちやう人もいるんですよね。
それはいちばん怖いことですね。
いま『幻魔大戦』で描いているのは、自覚した、でも、自覚したから全部トントン拍子にいくかというとそんなことはないということです。 つまり、非常に善良な人の心にも、自己満足とか独善というのがいつの間にか居座ってしまうというあたりがいま登場しているようです。 ぼくからみると、それはいちばん怖いっていう気がしますね。 とってもいい人で、どこから見ても文句のつけようがない。そういう人でも、なにか物足りないという人がいるでしょう。 悪人のほうがおもしろかったりして。人間というのは本当に,尋常一様じゃないなという気がしますね。 善良な人っていうのはつき合うと、往々にして退屈な場合があるんですよね。 精神がとてもフラットで、つき合っていても、ちっとも刺激がない、全然ワクワクしないということはよくあることです。
読者S:
エネルギーが低いという感じですか。
平井:
いや、それとも違うんですね。
読者M:
それに満足しているからじゃないかという気がするんですよね。
平井:
自己満足っていうことはありますから、それはいえると思うけれども、エネルギーは決して低くない。
つまり、折伏なんてする人ね、エネルギーは低くないですよね。
だけど、つき合うと、とても退屈ですし、あまりおつき合いしたくないという感じになってしまう。それと一緒ですよね。
『幻魔大戦』を書いていて、ああいう組織論というのはどんどん段階が深まっていくんです。 自分の意識だけで書いていたら、とても書けないと思います。 やっぱり人間の根源的なところまでいっちゃうんじゃないかと思うんです。
悪人というのはおもしろいですよ、作者から見ると。いちばんおもしろいですね。 (笑)あんまりつきあいたいとは思わないけれども、おもしろい。
読者S:
たとえば江田四朗を出すとか。
平井:
江田四朗は、悪人としてフラットですね。
読者M:
たとえば、ウルフガイを読む人なんか、西城が好きだという人がけっこういますよね。
平井:
多いですね。とても多いですよね。西城にあんなに感情移入して書くとは、自分では全く思わなかったですね。
自然にそうなっちゃうんです。
悪人というのは書いていくうちにだんだん情が移っていくんですかね。
ただ登場人物で嫌悪すべき人間というのはだんだんいなくなってきますね、それだけ肩を入れて書いてますと。
それを悟ってから、田中角栄さんなんていうのもだんだん興味がわいてきましたけどね。
(笑)単純に黒と自にきちっと分ける善悪というのは、どうもないようですな。
そんなことはあたり前ですが。
天使より悪魔のほうがおもしろいという読者は意外といるんです。 それもうなずけますね。 イメージとして天使というのはわりと尋常一様に、全部同じ色調でモノトーンになりやすいですね。 極楽トンボみたいな感じでね。肩に翼を生やして、背中に後光をいただいた姿ですね。そういうイメージが強い。
だけどぼくにとって天使は決してモノトーンじゃないんです。ウルフガイみたいな天使だっていますからね、ケンカっ早くて。
●『真幻魔大戦』第三部はクロノスが主人公になって、巨大なストーリーに発展しそうです。
読者N:
ウルフガイの話が出ましたが、旧作を読むということはおありなんですか。
平井:
ありません。今は全然読みません。とくに幻魔シリーズを書きはじめてから、過去に書いた作品は、自分の中で比重がどんどん弱まってきましたね。
常に、自分の目は、これから遠く地平のうえに置かれていて、過去に,自分が書いたものは全然自分にかかわりがないような感じになってきて、それがどんどん強まってきますね。
幻魔シリーズを書きはじめてから、人格的にもちょっと変わってきたんじゃないかという気もします。
読者N:
自分自身で変わったという気持になられたのは、角川から『幻魔大戦』を続々と出されたころからですか。
平井:
いや、その前に徳間で連載を始めたんですからね。七九年の六月号だったかな。
徳間の『真幻魔大戦』を書いているうちに、漫画の『幻魔大戦』がとても比重が軽くなってしまったんですね。
つり合いがとれないんですよ。
あの漫画じゃどうも軽すぎる。補完するかたちでやらなきゃいけない。
それで角川の『幻魔大戦』が生まれたんですね。
「少年マガジン」で石森さんと共作をはじめた時、原作は小説として書いていたんです。 それで、引っぱり出してみましたら、非常に雑な代物なのですね。 これではいけない、小説としてもっと完全なかたちにしよう、ということで書きはじめたんです。 そしたら、三巻まで書いた時点で突如、違っちゃったんです。 猛烈な勢いでコミック版から離れてしまいまして、あれよあれよといってる間に全く独自の『幻魔大戦』が生じてきた。
あれを書いている時に宇宙の神秘みたいなものを感じましたね。 そんなつもりは全然なかったのに、どうして新しいものかどんどん生まれてくるんだろうと思いました。 言霊つかいというのはこういうことだったのかなあと腑に落ちたりして。
言霊つかいというとピンとこないかもしれませんが、霊媒と本質的には似ているんじゃないですかね。 霊媒というのは自分を無にしてほかの霊を入れる。 そして、トランス状態でしゃべります。 普段の人絡と全然違う別人の人格が出て、いろんなことをしゃべって帰る。
審神者 いうのがいますね。 霊媒に入った霊が本物かどうかを見分けなければいけない。 邪悪な霊が入ってうそをしゃべって帰るかもしれないので、そういうのをきちっと見分けるために審神者 というのがいるわけです。 私の場合には霊媒と審神者 を同時にやっているという感じですね。
私が言霊つかいだというと、真に受けない人もずいぶんいると思うんですか、言霊つかいでなかったら、これだけの小説は書けないと思います。 絶対に間違いないと思います。
読者N:
いわゆる自動書記という状態。
平井:
自動書記というのは完全に霊媒ですね。
そうなったら霊媒です。
何が書いてあるかわかりません。
大本教の出口王仁三郎がやった『霊界物語』みたいになってしまいます。
あれもものすごい勢いで書いたたものですけれども、非常に難解ですね。
何が書いてあるかよくわからない。
それじゃ困る。だれも読んでくれませんので。
読者N:
そうしますと、何かに突き動かされて書いているという・・・・・・。
平井:
そうですよ。四年間、私みたいな生活がほかの方にできるかというと、できないんじゃないかという気がします。
人生の全てを幻魔シリーズを書くのに調整してしまってね。
一日を全部、それに捧げてしまう。
普通の作家だったら、半月ぐらいならできると思いますが、半月終わったらワーッと遊びに行って発散してしまう。
四年間続けるというのは、やっぱり言霊つかいでなければできないんじゃないでしょうか。
書けば書くほどそういう確信が強まってくるのて、そのお陰でさらに書き続けられるということですね。
読者Y:
『真幻魔大戦』のほうでCRAの人々が出てきて、角川版のGEKKENのメンバーがみんなめぐり会いましたね。
これから『幻魔大戦』に向けてドッキングしていくんだなと思っていたら、今度は優里の冒険がはじまってまた世界が広がった。
これはまだまだ続くんだと思って、本当にどうなっていくんだろうという感じなんですね。
幻魔シリーズはすごく世界が広いんだなと思いました。
平井:
そうてすね。書いていて、自分でもそう思います。
全く同じ感想ですね。CRAというのが出てきた時、これで世界が一つ、カッチリ固まって、この線でいくのかなあと思っていたら、実情は違うんですよね。
優里が幻魔に会いまして、クロノスって呼ばれてね。クロノスって何だと思いますよ。
書いてて、あのギリシア神話のクロノスかななんて、書いてる本人が考えてますからね。
この雑誌に載っている『真幻魔大戦』第三部ではクロノスが主人公になってしまった。
この第三部は、初めインタールードのつもりで書きはじめたんですね。
百枚くらいかなと思って書き出したんです。
それがいつの間にか第三部の巨大なストーリーに発展しちゃいまして、この増刊号用に五百枚書きましたけれども、もっともっと巨大な物語になりそうです。
自分で構想してたら、そんなとんでもないことは、とても出てこないっていう気がしますね。
おそらく、普通の作家だったらこんな恐ろしいことはできないっていうと思うんですよ。
先がどうなるのかわからないのに盲滅法に書けるわけはない。
私自身、書いてて恐ろしくてしょうがないんです。
●この先、霊的な風潮が強まってくると思うんです。いろんな霊能者がどんどん出てくるでしょう
読者S:
〝幻魔大戦〟の世界は今のところ膨張宇宙で、広がっていく一方なんですが、いつごろ収束しはじめるかという予感みたいなものはおありなんですか。
平井:
広がりながら収束しているというのがわかりますね。
読者S:
体系化が整っていく印象は受けるんですけど。
平井:
体系化といいますか、深化といったほうがあたっているような気がしますね。
登場人物はいわゆる三次元的な、われわれ普通の人間として出ますが、その内奥にはもっと巨大な世界があるんだということを実証するというかたちで物語が進みますので。
読者U:
角川版『幻魔大戦』ではいま光のネットワークを完成させるというかたちで話が進んでいると思いますけど、その光のネットワークが完成してしまえば、幻魔の存在が意味をなさなくなるということはありませんか。
平井:
簡単に完成すると思いますか。(笑)
読者U:
そうなんですけど、最終的には完成するわけですね。
幻魔シリーズは幻魔と戦うストーリーですから、大連盟がずうっと戦い続けてきたとか、サイボーグ戦士ベガが登場して破れたり、そういう戦いがあったわけです。
でも、もし完成してしまったら、そういうかたちの戦いに意味があるんでしょうか。
平井:
大連盟というのは武力で幻魔と戦ってかなわないんですね。
東丈がやっているのは、光のネットワークというものをつくって幻魔をいやすというかたちで、全く違う新しい次元でやっているわけでしょう。
ただ、幻魔シリーズをこれだけ枚数を費やして書いているというのは、光のネットワークとひとことでいいますが、そんなに簡単にできるかということですね。
光のネットワークというイメージはあるかもしれません。
しかし、どういう問題点があって、それがどういう形で出てくるのか、最終的に光のネットワークは完成するのかどうかというところまでいくんじゃないですか。
人間の心は突きつめて考えるとそんなに単純なものではないでしょう。
一時的には、人間の心はとても平和になるし穏やかになりますよね。
だけど、東丈が心コロコロというように、人間の心は一瞬として同じ状態にとどまっていない。
コロコロ変わるから心というんだというセリフがあったと思うんです。
時間帯によっても心の状態が変わってきますからね。
実に簡単に変わりますよ。
ちょっとおもしろくないことがあれば、すぐに幻魔になりますよ(笑)。
イエスや釈迦という偉大な人たちでも、一日の時間帯を一分刻みで書くとすると、いわゆる釈迦とかイエスのイメージは変わってくるんじゃないでしょうか。 釈迦でもイエスでも人間です。弟子たちがくだらないことをいったらカッとなるかもしれない。 でも、そういうのはお経にも聖書にも出てこないんですね。 なかなか出にくいところです。 ペテロに向かってイエス・キリストが「サタンよ、去れ!」なんてどなりつけている。 イエスがなぜ自分の一の弟子に向かってそういうことをどなっているかなんてわからないですよね。 あの辺はおそらく、聖書学者にとってもいちばんなぞだと思うんです。
私が解くというんじゃないけれども、なぜそういうセリフが出てくるのか、幻魔シリーズで肉薄してみたいという気持はあるわけです。
幻魔シリーズをなぜあんなに長く書くんですかという質問もありますが、真のメシアと呼ばれる人の一日を書いたら、十万枚書いても追いつかないんじゃないかという気がします。 イエス・キリストの一日を朝から一分刻みで書いていったら十万枚以上かかるんじゃないか。そういう気がしますね。 イエス・キリストが一言吐いた。 その背景にどれだけ膨大なものがあるかわからないでしょう。 そういうものを書いていってごらんなさい。 追いつかないですよね。 普通の作家がリアリズムで書こうとしたら、どうなりますかね。 ですから、幻魔シリーズというのはSFだから書けるんだという気がします。 SFの手法というものを幻魔シリーズでは最大限生かしていると思うんです。 多次元宇宙なんて書けないと思うんですよ、普通の作家は。
幻魔シリーズを書いている意義みたいなものを自分なりに考えてみますと、この先、霊的な風潮が更に強まってくると思うんですね。 いろんな霊能者がどんどん出てきますし。でも、その九割九分まではインチキですからね。 本当のものを見分ける基準といいますか、そういうものはどうしても必要だと思うんです。 幻魔シリーズの意義はそのあたりにもあるのかもしれないと思っております。